「生命は自然に湧く」という「常識」はいかに覆されたか:自然発生説とパスツールの実験
かつて信じられた「自然に生命が湧き出す」という考え
皆さんは、しばらく放置しておいた食べ物にカビが生えたり、生ごみに小さな虫(ウジ)が湧いたりするのを見たことがありますでしょうか。現代では、カビは空気中の胞子が、ウジはハエが卵を産んだものが育ったのだ、と理解されています。しかし、科学が発達していなかった時代には、まるで何もないところから、これらの生命がひとりでに現れるかのように見えました。
このような観察から生まれたのが、「自然発生説」という考え方です。これは、「生物は、親となる生物がいなくても、無機物や別の種類の生物から自然に発生する」とする古い「常識」でした。例えば、泥からカエルが、腐った肉からウジが生まれる、といった具合です。この考えは、古代ギリシャの哲学者アリストテレスをはじめ、長い間、多くの人々に信じられていました。なぜなら、当時の人々が直接観察できる範囲では、確かにそのような現象が起こっているように見えたからです。特に、目に見えないほど小さな微生物の存在が知られていなかった時代には、病気の原因なども含め、多くの不可解な現象を説明するための便利な「常識」として受け入れられていたのです。
自然発生説への最初の疑問:レーディの挑戦
自然発生説という古い常識に、初めて科学的な方法で明確な疑問を投げかけたのは、17世紀イタリアの医師、フランチェスコ・レーディでした。彼は、腐った肉にウジが湧くのは、肉そのものから自然に生まれるのではなく、ハエが卵を産み付けた結果ではないかと疑いました。
1668年、レーディは有名な実験を行います。いくつかの容器に肉を入れ、一方の容器は布で蓋をしてハエが入れないようにし、もう一方は蓋をせずにそのままにしました。すると、蓋をしなかった容器の肉にはウジが湧きましたが、布で蓋をした容器の肉にはウジが湧きませんでした。この実験によって、ウジは腐った肉から自然に生まれるのではなく、外部から来たハエによってもたらされることが示唆されたのです。
しかし、このレーディの実験をもってしても、自然発生説が完全に否定されたわけではありませんでした。なぜなら、彼の実験で扱われたのはウジのような比較的大きな生物であり、当時発見されつつあった微生物、つまり目に見えないほど小さな生物については、まだ自然発生するのではないかと考えられていたからです。
微生物をめぐる論争:ニーダム対スパランツァーニ
18世紀になると、微生物の自然発生をめぐる論争が加熱します。イギリスの聖職者であり博物学者でもあったジョン・ニーダムは、肉汁や野菜汁を加熱して密閉しても、時間が経つと微生物が現れることを発見し、これを微生物の自然発生の証拠だと主張しました。彼は、加熱によって生命力のようなものが生じると考えたのです。
これに対し、イタリアの生物学者ラザロ・スパランツァーニは、ニーダムの実験方法に不備があると指摘しました。スパランツァーニは、肉汁をガラス容器に入れ、完全に空気を抜いてから長時間加熱するという、より厳密な実験を行いました。その結果、このように処理した肉汁からは微生物は現れませんでした。彼は、ニーダムの実験で微生物が現れたのは、加熱や密閉が不十分だったために、空気中に漂う微生物が侵入したからだと考えました。
しかし、ニーダムとその支持者たちは、スパランツァーニの実験は加熱しすぎであり、密閉によって新鮮な空気(生命の発生に必要な「生命力」を含むと考えられていた)が遮断されたため、微生物が発生しなかったのだと反論しました。この論争は、どちらも決定的な証拠とならず、微生物の自然発生をめぐる議論は平行線をたどりました。
自然発生説への決定的な一撃:パスツールの実験
この長きにわたる論争に終止符を打ったのが、19世紀フランスの細菌学者ルイ・パスツールでした。彼は、空気の出入りは許容するものの、空気中の微生物は遮断するという巧妙な実験装置を考案しました。
パスツールは、栄養分を含む液体(培養液)を入れ、口を細長く曲げた「白鳥の首」のような形をした特殊なフラスコを用いました。このフラスコの首は外気とつながっていますが、途中でS字状に曲がっているため、空気中に含まれるほこりや微生物は、この曲がった部分に引っかかって液体のところまで到達できません。
パスツールは、このフラスコに入れた培養液を沸騰させて徹底的に滅菌しました。こうして、フラスコの中の液体は、新鮮な空気には触れるものの、微生物は侵入しない状態になります。驚くべきことに、この状態では、何年経っても培養液は澄んだままで、微生物は発生しませんでした。
一方、同じ培養液を通常のフラスコに入れて滅菌し、そのまま空気に触れさせると、すぐに微生物が発生しました。さらに、白鳥の首フラスコを傾けて、液体が曲がった首の部分に触れるようにすると、そこに溜まっていたほこりや微生物が液体に入り込み、やがて液体が濁って微生物が発生したのです。
このパスツールの実験は、微生物が空気中を漂っており、それが液体に侵入することで増殖するのであって、液体そのものから自然に発生するわけではないことを明確に証明しました。空気は生命の発生に必要だが、それは空気そのものが何かを生み出すのではなく、空気に含まれる微生物が原因である、ということが示されたのです。
現在の理解とこの歴史から学ぶこと
パスツールの実験によって、地上のあらゆる場所で現在観察される生命は、例外なく親となる生命から生まれる、という「生物発生説」が確立されました。これが現代生物学における生命の基本原則となっています。カビは胞子から、ウジはハエの卵から、病原菌は既存の病原菌が増殖して生まれる、という現在の「常識」は、こうした科学史上の長い探求と論争の末に確立されたものなのです。
ただし、地球上の最初の生命がどのように誕生したか、という問題(化学進化)は、生物発生説とは別の研究テーマとして、現在も活発に研究が進められています。自然発生説が否定したのは、現代の地球環境下で、非生物から繰り返し生命が自然に発生するという考え方です。
自然発生説から生物発生説への転換の歴史は、科学における「常識」がいかに覆されることがあるか、そしてそれを覆すためには、単なる観察や推測だけでなく、厳密な実験設計と論理的な検証が不可欠であることを教えてくれます。レーディ、スパランツァーニ、そしてパスツールといった科学者たちの地道な努力と創意工夫が、生命という最も基本的な現象に対する人類の理解を大きく前進させたのです。
私たちは、この歴史を振り返ることで、目の前の現象を鵜呑みにせず、その真の理由を探求することの重要性、そして科学的な真実がいかにして、多くの人の手によって少しずつ明らかにされていくのかを学ぶことができます。