科学誤謬訂正史

眠っている脳は何もしていない」という「常識」はいかに覆されたか:睡眠中の活発な脳活動の発見史

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眠っている脳は「ただの休み時間」ではなかった

私たちは人生の約3分の1を睡眠に費やしていると言われます。眠っている間、体はぐったりとして動きも鈍く、意識もはっきりしません。そのため、科学が発達する以前、多くの人は「眠っている間の脳は、単に活動を休止している、いわばスイッチがオフになったような状態である」と考えていました。これは、外見上の静けさから自然に想像できる「常識」と言えるでしょう。脳が日中の活動で疲弊した体を休ませるための、受け身の「休み時間」に過ぎない、と捉えられていたのです。

観測技術の限界が作った「静的な脳」像

なぜこのような考え方が広まったのでしょうか。それは、当時の科学技術では、生きた人間の脳の内部で行われている微細な活動を直接観察する手段がなかったためです。脳外科手術でもしない限り、脳そのものを見ることはできませんし、見たところでその「活動」を目で捉えることは不可能です。

外部から観察できるのは、眠っている人の静かな姿だけです。呼吸や心臓は動いていますが、思考や意識活動は表面上見られません。熱力学の初期の考え方にも通じますが、エネルギーを消費せず、熱もあまり発生させない(ように見える)状態は、「何も活動していない」「休息している」と解釈されやすかったのです。

この「眠っている脳は静止している」という常識は、長い間、疑われることなく受け入れられていました。

脳波の発見と、眠りの中に潜む活動の兆候

この古い常識に疑問が投げかけられるきっかけとなったのは、脳の電気活動を記録する技術の発展でした。1920年代、ドイツの精神科医ハンス・ベルガーは、人間の頭皮上に電極をつけて脳の電気活動を記録できることを発見しました。これが「脳波」の始まりです。

ベルガーの研究により、覚醒時と睡眠時では脳波のパターンが異なることが明らかになりました。しかし、当初の脳波計の精度はまだ低く、睡眠中の脳波は覚醒時よりも振幅が大きくゆっくりした波が中心に見えたため、やはり「活動が低下している状態」という解釈を覆すまでには至りませんでした。まるでエンジン回転数が落ちたようなイメージです。

しかし、さらに研究が進むと、睡眠中の脳波が単純なものではなく、いくつかの異なるパターンがあることが分かり始めます。そして、決定的な発見は、1950年代にユージン・アセリンスキーとナサニエル・クライトマンによってなされました。

急速眼球運動(REM)の発見と「活動する眠り」

アセリンスキーとクライトマンは、眠っている被験者の眼球の動きに注目し、脳波と同時に記録する実験を行いました。すると驚くべきことに、睡眠中、周期的に眼球が素早くキョロキョロと動く時間帯があることを発見したのです。彼らはこの状態を「急速眼球運動」を意味する「Rapid Eye Movement」、略して「REM(レム)睡眠」と名付けました。

そして、このREM睡眠の最中に被験者を起こすと、非常に高い確率で「夢を見ていた」と報告したのです。それまでの「眠っている脳は何もしていない」という常識からすれば、意識的な活動の最たるものである「夢を見る」という現象が、この活発な眼球運動と結びついていることは衝撃でした。

さらに研究は進み、REM睡眠ではない時間帯の睡眠も、脳波パターンによって異なる段階(ノンレム睡眠のステージ1から4など)に分類できることが明らかになりました。ノンレム睡眠中も脳は異なるリズムで活動しており、完全に停止しているわけではないことが判明したのです。

このように、脳波計や眼球運動計などの計測技術の発展が、表面上静かに見える睡眠中の脳が、実際には多様で活発な活動を周期的に行っていることを明らかにし、旧来の常識を大きく覆していったのです。

睡眠は受け身の「休み時間」ではなく、能動的な生理機能

現在の科学では、睡眠は単なる脳の休息状態ではなく、生命維持に不可欠な能動的で複雑な生理機能であると理解されています。

レム睡眠は、主に記憶の固定や感情の処理、脳の発達などに関わっていると考えられています。脳は覚醒時に近い活動レベルを示し、脳内で情報が整理・統合されているかのような働きをします。まるで、日中に取り込んだデータをコンピュータがバックグラウンドで処理している状態に例えることができるかもしれません。

一方、ノンレム睡眠、特に深い段階の睡眠は、体や脳の疲労回復、成長ホルモンの分泌、免疫機能の調整などに重要な役割を果たしていると考えられています。脳の活動は覚醒時よりも低下しますが、特定のゆっくりしたリズムで活動し、脳内の老廃物を除去するシステム(グリリンパ系)も活発に働いていることが最近の研究で分かってきています。これは、体が大々的なメンテナンスや掃除を行っているようなイメージです。

科学技術が明らかにした生命の神秘

「眠っている脳は何もしていない」という古い常識は、脳波計という新しい技術の登場によって、睡眠中の脳が複雑かつ能動的に活動しているという現代の理解へと訂正されました。この発見は、睡眠科学という新たな分野を切り開き、睡眠障害の治療法の開発や、睡眠が日中のパフォーマンスや健康に与える影響に関する研究を大きく前進させました。

この事例は、限られた観測手段から得られた推測が常識となること、そして新しい技術や詳細な観察によって、それまでの常識がいとも簡単に覆されることがあることを示しています。私たちの体や心、そして世界の仕組みについて、まだ知らないことはたくさんあり、科学的な探求は今後も続いていくということを教えてくれているのです。