科学誤謬訂正史

生き物は「最初からミニチュアで完成している」という「常識」はいかに覆されたか:前成説から後成説へ

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生物は最初から「小さな大人」だった? かつて信じられた「前成説」

生物が親から子へと世代をつないでいくとき、どのようにして新しい生命体が生まれるのでしょうか。私たちの体や、身の回りの動物、植物も、最初はたった一つの細胞や、非常に小さな段階から複雑な形へと変化していきます。現代の生物学では、これは細胞が分裂を繰り返し、それぞれの役割に応じて変化していく「発生」というプロセスであると理解されています。

しかし、科学の歴史を振り返ると、この「発生」について、まったく異なる考え方が長く信じられていました。それが、今回ご紹介する「前成説(ぜんせいせつ)」です。

前成説とは、簡単に言えば、「新しい生命体は、親の卵や精子の中に、すでに大人の形をしたごくごく小さなミニチュアとして存在している」と考える説です。卵子や精子といった小さな種の中に、最初から手足や臓器、頭まで備わった「小さな人間」(または動物)が、まるで見えないくらい小さく折り畳まれて入っている、と想像されていたのです。

この考え方は、今聞くと非常に不思議に思えるかもしれません。しかし、17世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパの多くの学者や一般の人々の間で、この前成説が「常識」として広く受け入れられていました。では、なぜこのような考え方が生まれたのでしょうか。

見えるものこそ真実? 顕微鏡が後押しした前成説

前成説が力を得た背景には、科学技術の進歩が逆説的に影響していました。17世紀後半、アントニ・ファン・レーウェンフックらが高性能な顕微鏡を発明し、それまで誰も見たことのなかったミクロの世界が明らかになりました。

研究者たちは、この新しい道具を使って様々なものを観察しました。その中には、動物の精子や卵子も含まれていました。顕微鏡で精子を初めて見たレーウェンフックは、その中に小さく動く構造体を見つけ、「ホムンクルス」(小さな人間)と呼びました。一部の学者は、この精子の中に、将来の子供がすでにミニチュアとなって存在していると考えました。これを「精子起源説」といいます。

一方、精子ではなく卵子の中にミニチュアがいると考える「卵子起源説」もありました。この説では、精子は卵子の発生を促す刺激を与えるだけだとされました。どちらの起源を主張するにせよ、基本的な考え方は同じです。つまり、生命は無から形作られるのではなく、最初から完成された形が「前もって」(pre-)「形成されている」(formation)という考え方でした。

当時の顕微鏡の性能はまだ低く、精子や卵子の内部構造を詳細に見ることは困難でした。しかし、不鮮明ながらも何か複雑な構造が見えるような気がしたり、あるいは見たいと強く願ったりした結果、「ミニチュアがいる」と思い込んでしまった可能性があります。また、当時の哲学や宗教観も、生命が段階的に形作られるよりも、神によって最初から完璧な形で創造され、それが受け継がれていくという考え方と親和性が高かったことも、前成説が受け入れられた要因の一つかもしれません。

このように、前成説は当時の最新技術であった顕微鏡観察と、支配的な思想が組み合わさって生まれた「常識」だったのです。

観察の積み重ねが覆した「常識」:発生過程の発見

しかし、科学の探求は止まりません。顕微鏡の性能はさらに向上し、より精密な観察が可能になっていきました。すると、前成説に対する疑問が徐々に生まれ始めます。

まず、多くの研究者が、動物の発生を注意深く追跡しました。例えば、ニワトリの卵を温め、数時間ごと、あるいは一日ごとに中身を観察すると、最初は均一に見えた組織が、次第に心臓や血管、手足の芽といった構造を「形成」していく様子が観察されました。これは、最初からミニチュアが存在しているだけでは説明がつきにくい現象です。むしろ、単純な状態から複雑な構造が段階的に作り上げられているように見えました。

このような観察結果を重視した研究者たちは、「後成説(こうせいせつ)」を提唱しました。後成説は、生命体は最初から完成しているのではなく、受精卵のような比較的単純な状態から、発生の過程を通じて次第に複雑な構造や器官が「後に」(epi-)「形成されていく」(genesis)と考える説です。

後成説を裏付ける重要な貢献をした人物として、ドイツの発生学者カスパー・ヴォルフ(Caspar Friedrich Wolff, 1733-1794)が挙げられます。彼はニワトリの胚の発生を詳細に観察し、器官がゼロから、あるいはそれまでとは異なる単純な組織から段階的に形作られることを示しました。

さらに19世紀に入ると、エストニア出身の生物学者カール・エルンスト・フォン・ベーア(Karl Ernst von Baer, 1792-1876)が、様々な動物の発生を比較研究し、脊椎動物の胚が初期段階でよく似ており、そこから種ごとに固有の特徴が分化していく「ベーアの法則」を発見しました。これは、発生が共通の基盤から分かれていく段階的なプロセスであることを強く示唆しており、前成説を決定的に否定する証拠となりました。

科学的「常識」の転換:細胞説との融合

ベーアの発見の頃には、生物はすべて「細胞」からできているという細胞説が確立されつつありました。発生のプロセスが、細胞分裂と細胞の分化(特定の役割を持つ細胞へと変化すること)によって説明できるようになると、前成説は次第に支持を失っていきました。

生命は、たった一つの受精卵という細胞からスタートし、それが繰り返し分裂して細胞数を増やします。そして、それぞれの細胞が集まって組織を作り、組織が集まって器官を作り、器官が集まって個体を作る、という段階的な形成過程を経て発生することが、科学的な「常識」として確立されていったのです。前成説のように、最初から完璧なミニチュアが用意されているという考え方は、精密な顕微鏡観察と、細胞という生命の基本単位の理解によって、歴史上の誤りとして訂正されました。

現在の理解:複雑な発生の仕組み

現代の発生学では、生物の発生は遺伝子情報に基づいて、細胞分裂、細胞の移動、細胞間の相互作用、細胞の分化、細胞の死滅といった様々なプロセスが非常に精巧に制御されながら進んでいく複雑な現象として理解されています。DNAに書き込まれた遺伝情報が、発生の設計図となり、いつ、どの場所で、どのような細胞が生まれ、どのような形を作るかがコントロールされているのです。

私たちの体が、たった一つの受精卵から始まる旅を経て、これほどまでに複雑で精巧な構造を持つに至る仕組みは、前成説の時代には想像もできなかったものです。発生学の研究は今も進んでおり、再生医療などへの応用も期待されています。

まとめ:誤りを訂正し、真実に近づく科学の歩み

前成説が「常識」として信じられていた時代は、科学技術が発展し始めたばかりであり、観察できる範囲には限界がありました。しかし、そこで見えた断片的な情報や、当時の思想的な背景から、生命の始まりについて大胆な推測がなされました。

その後の科学は、顕微鏡の性能向上や、地道な観察の積み重ね、そして新しい概念(細胞説など)の導入によって、その推測が誤りであったことを明らかにしました。生命は最初から完成しているのではなく、段階的な形成過程を経て作られるという後成説、そしてそれを分子レベルで理解する現代の発生学へと、「常識」は大きく転換したのです。

この前成説から後成説への転換は、科学がどのように進歩していくかを示唆しています。限られた情報から仮説を立てること、新しい技術によってより詳細な観察が可能になること、そして、それまでの仮説が新しい証拠によって覆されることを恐れず、真実へと向かうこと。科学とは、このように誤りを訂正しながら、粘り強く真実に近づいていく営みなのだと言えるでしょう。