科学誤謬訂正史

ものが燃える謎:フリストン説から酸素の発見へ

Tags: フリストン説, ラヴォアジエ, 燃焼, 化学史, 科学革命

物が燃える不思議:かつて信じられた「フリストン」の物語

私たちの身の回りには、ものが燃えるという現象が当たり前のように存在します。火を起こして暖をとったり、料理をしたり、それは私たちの生活に欠かせない営みの一つです。しかし、この日常的な現象の正体について、科学が明確な答えを得るまでには長い時間がかかりました。

かつて、18世紀のヨーロッパを中心に、ものが燃えることや金属が錆びること(当時は「カルクス化」と呼ばれていました)は、「フリストン」という謎の物質の存在によって説明されていました。「フリストン説」と呼ばれたこの考え方は、当時の科学者たちによって広く受け入れられていた、まさしく「科学的常識」の一つでした。

なぜフリストン説が生まれたのか

フリストン説は、ドイツの医師であり化学者であったゲオルク・シュタールによって体系化されました。彼は、燃えるものにはすべて「フリストン」が含まれており、燃焼とはそのフリストンが物質から放出される現象だと考えました。木炭や硫黄のような燃えやすい物質はフリストンを豊富に含み、燃え尽きるとフリストンが失われ、燃えカスが残ると説明されました。金属が錆びるのも、金属からフリストンがゆっくりと放出されて「カルクス」(金属の酸化物)になる過程だと考えられたのです。

この説は、当時の観察事実の多くをうまく説明できるように見えました。例えば、空気が閉じ込められた空間でろうそくを燃やすと火が消えてしまうのは、空気がフリストンで飽和してしまい、フリストンを受け入れることができなくなるからだと解釈されました。また、カルクスに木炭のようなフリストンを多く含む物質を加えて加熱すると、再び金属に戻ることも、木炭からカルクスにフリストンが移動したためだと説明されました。

このように、フリストン説は当時の限られた知識や実験技術の中では、非常に説得力のあるモデルだったのです。多くの科学者たちがこの説に基づき研究を進めました。

フリストン説への疑問:重くなる燃えカス

しかし、フリストン説には一つの大きな矛盾がありました。それは、ものが燃えたり金属が錆びたりすると、多くの場合、燃えカスやカルクスの質量が、元の物質の質量よりも増えるという事実です。

フリストン説によれば、燃焼は物質からフリストンが「出ていく」現象です。フリストンが物質を持つのなら、フリストンが出ていけば元の物質よりも軽くなるはずです。ところが実際には重くなるのです。この矛盾に対し、フリストンは「負の質量」を持つ、つまり質量を減らす効果があると苦しい説明をする科学者も現れましたが、これは直感的にも受け入れがたい考え方でした。

この、質量が増えるという観測事実は、フリストン説の根幹を揺るがすものでした。特に、金属を精密に測量しながらカルクス化させる実験を行う科学者たちにとって、この問題は無視できないものとなっていきました。

新しい発見とラヴォアジエの化学革命

フリストン説を決定的に覆したのは、フランスの化学者アントワーヌ・ラヴォアジエでした。彼は、徹底的な定量的な実験を重視しました。つまり、実験の前後で物質の質量を正確に測定することを非常に大切にしたのです。

ラヴォアジエは、密閉したガラス容器の中でスズのような金属を加熱する実験を行いました。金属は空気中の何かと結合してカルクスになり、その質量が増加しました。同時に、容器の中の空気の一部が消費されていることを発見しました。さらに、このカルクスを木炭と一緒に再び加熱すると、元の金属に戻り、その時に消費された空気と同じ性質の気体(二酸化炭素)が発生することも確認しました。

これらの実験から、ラヴォアジエは燃焼やカルクス化は、物質から何かが「出ていく」のではなく、空気中の特定の物質(後に「酸素」と名付けられます)が物質に「結合する」現象であると結論づけました。彼は、イギリスのジョゼフ・プリーストリーやスウェーデンのカール・ヴィルヘルム・シェーレといった先行する研究者が発見していた、燃焼を助ける「脱フリストン空気」(つまり酸素)の存在を正しく理解し、それを自身の理論の核心に据えたのです。

ラヴォアジエの理論は、燃焼後の質量が増加する事実を鮮やかに説明しました。質量が増えるのは、フリストンが出ていくからではなく、空気中の酸素が結合するからだったのです。彼はまた、化学反応の前後で物質の総質量は変化しないという「質量保存の法則」を明確に提唱しました。

現代の理解と科学の進歩

ラヴォアジエのこの新しい燃焼理論と質量保存の法則は、当時の化学者たちの間に大きな衝撃を与えました。フリストン説は徐々に支持を失い、燃焼が酸素との結合であるという考え方が広く受け入れられていきました。これは「ラヴォアジエの化学革命」と呼ばれ、経験的な知識の集まりに過ぎなかった化学を、精密な測定と論理に基づいた近代的な科学へと発展させる決定的な転換点となりました。

現在の科学では、燃焼は「酸化反応」の一種として理解されています。物質が酸素と急速に反応し、熱や光を伴ってエネルギーを放出する現象です。フリストンという実体のない物質に頼ることなく、原子や分子レベルでの化学結合の変化として正確に記述できるようになりました。

誤謬から生まれた化学の礎

フリストン説は、今から見れば誤った理論でした。しかし、当時の科学者たちは真剣にその謎に取り組んでいました。そして、その誤った理論が抱える矛盾点に向き合い、徹底的な実験と観察を行った結果、フリストン説は覆され、近代化学の扉が開かれたのです。

このフリストン説の物語は、科学の進歩が常に正しい道筋をたどるわけではないこと、そして、過去の「常識」であっても、新しい証拠やより正確な観測によって果敢に検証し、必要であれば訂正していくことの重要性を示しています。科学は、このように誤謬を乗り越える過程を経て、より真実に近づいていく学問なのですね。