科学誤謬訂正史

「血液は体内で一方通行に流れる」という「常識」はいかに覆されたか:ウィリアム・ハーヴェイの血液循環説

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現代では当たり前の「血液循環」、かつての驚くべき「常識」

私たちの体内で血液がどのように流れているか、と聞かれれば、ほとんどの方が「心臓から全身に送られ、また心臓に戻ってくる」という「血液循環」を思い浮かべることでしょう。酸素や栄養を運び、老廃物を回収するという、生命維持に欠かせないこの仕組みは、現代では学校でも習うごく基本的な知識です。

しかし、この「血液循環」という考え方が、人類の歴史の中でごく最近になって確立されたものであることをご存存じでしょうか。古代から長きにわたり、人々は血液の流れについて全く異なる「常識」を信じて疑わなかったのです。

長く支配したガレノスの血流論:一方通行の不思議な流れ

今からおよそ1800年以上前、古代ローマ時代に活躍した医学者クラウディオス・ガレノスは、当時の医学知識を集大成し、その後のヨーロッパ医学に絶大な影響を与えました。彼の考えは、中世からルネサンス期にかけて、およそ1500年もの間、医学の「常識」として揺るぎない地位を保ち続けます。

ガレノスが考えた血液の流れは、現代の私たちから見ると非常に奇妙なものでした。彼の説では、食べ物から作られた血液は、まず肝臓で生成されるとされました。そして、その血液は静脈を通って心臓に流れ込み、そこで一部が肺へ送られ、残りは心臓の壁の「見えない穴」を通って動脈へと流れ出すと考えられたのです。動脈に入った血液は全身の臓器に送られ、そこで「消費されてなくなる」という一方通行の流れだとされていました。

つまり、ガレノスにとって、血液は体内で「循環」するものではなく、肝臓で常に新しく作られ、全身で使われ尽くされる「使い捨て」のようなものだったのです。なぜこのような考えになったのでしょうか。それは、当時の解剖学や生理学の限界、そして哲学的な思想が影響していました。血管を流れる血液を直接観察することは難しく、また「食べ物が体内でエネルギーに変わる」という直観的な理解から、「血液も使えばなくなるのだろう」と考えられたのかもしれません。何より、ガレノスの権威があまりにも絶大だったため、その説に疑問を挟むこと自体が非常に難しかったのです。

常識への挑戦者たち:ウィリアム・ハーヴェイの登場

ガレノスの血流論が絶対的な「常識」として君臨する中で、少しずつ疑問の声や新しい発見が現れ始めます。例えば、16世紀にはミカエル・セルヴェトゥスやリアルド・コロンボといった研究者たちが、血液が心臓から肺に行き、また心臓に戻ってくるという「肺循環」の考え方に近づきました。また、イタリアの解剖学者ヒエロニムス・ファブリキウスは、静脈に血液の逆流を防ぐための「弁」があることを発見しますが、その役割を正しく理解するには至りませんでした。

こうした先行研究や発見の積み重ねの上に現れたのが、イギリスの医師ウィリアム・ハーヴェイ(1578-1657)です。ハーヴェイは、師であるファブリキウスから静脈弁の存在を学び、その構造を見て「血液が一方通行で流れ去るだけなら、なぜ逆流防止の弁があるのだろう?」という疑問を抱いたと言われています。

ハーヴェイは、単なる観察に留まらず、定量的な視点を取り入れました。彼は、心臓が1回の拍動で送り出す血液の量を推測し、それが1分間、1時間と続くと、膨大な量の血液が心臓から送り出されることを計算しました。この量は、ガレノスの説のように「肝臓で生産され、体内で消費される」だけではとても説明がつかないほど大量だったのです。「これほどの血液が体内で作られ、どこかで消えているというのはおかしい。血液は体内をぐるぐる回っているのではないか?」ハーヴェイはそう考えました。

そして彼は、動物の解剖や様々な実験を重ねました。生きた動物の心臓の動きを注意深く観察し、血管を糸で縛る(結紮する)実験を行って、血液がどちらの方向に流れているのか、弁がどのように機能しているのかを丹念に調べました。これらの観察と実験こそが、単なる推測だった血液循環の考え方を、科学的な真実へと昇華させたのです。

新説の発表と激しい抵抗、そして勝利

ハーヴェイは、自身の発見と実験結果をまとめた著書『血液循環に関する解剖学的研究』(ラテン語で De Motu Cordis)を1628年に発表しました。この本の中で、彼は血液が心臓をポンプとして全身を巡り、再び心臓に戻ってくるという「血液循環説」を明確に提唱しました。

しかし、1500年以上も信じられてきたガレノス説を覆すこの新しい考え方は、当時の医学界から激しい抵抗を受けました。多くの医師や学者は、長年の「常識」を簡単に手放そうとはせず、ハーヴェイを嘲笑したり、彼の説を否定したりしました。ハーヴェイは、自身のキャリアや名声を危険にさらしてこの新説を広めようとしたのです。

それでも、ハーヴェイの説は確固たる証拠に裏付けられていました。そして、徐々にではありますが、彼の説を支持する研究者が現れ始めます。決定的な証拠となったのは、ハーヴェイの死後、1661年にイタリアのマルチェロ・マルピーギが顕微鏡を使って毛細血管を発見したことです。毛細血管は、動脈と静脈をつなぐ非常に細い血管で、ガレノス説では説明できなかった動脈から静脈への血液の移行経路を明確に示しました。この発見により、ハーヴェイの血液循環説は揺るぎないものとなり、医学の「常識」は完全に書き換えられることになったのです。

現在の理解と、この歴史から学ぶこと

現在、血液循環は心臓を中心とした動脈、静脈、毛細血管からなる閉鎖されたシステムとして理解されています。心臓がポンプの役割を果たし、全身に血液を送り出す動脈、全身から心臓へ血液を戻す静脈、そして細胞レベルで物質交換を行う毛細血管という、それぞれの役割も明らかになっています。この仕組みが破綻すると、様々な病気につながることも分かっており、血液循環の理解は現代医学の根幹をなしています。

ウィリアム・ハーヴェイによる血液循環説の確立は、単なる一つの医学的発見に留まらず、科学的な探求のあり方を示す重要な事例と言えるでしょう。強固な「常識」や権威に対しても、観察と実験、そして定量的な思考に基づいて疑問を持ち、粘り強く真実を追求することの重要性を私たちに教えてくれます。

私たちが今日当たり前だと思っている科学的な知識も、かつては多くの人々が疑った新しい考え方だったり、時には激しい論争の末にようやく受け入れられたものだったりします。科学の歴史は、まさにこのようにして古い「常識」が新しい発見によって訂正され、積み重ねられてきた道のりなのです。この血液循環説の歴史を知ることは、現代社会に溢れる様々な情報についても、鵜呑みにせず、根拠を持って判断することの大切さを改めて考えさせてくれるのではないでしょうか。