「神経信号は液体が流れる」という「常識」はいかに覆されたか:電気による神経伝達の発見
脳から筋肉への命令は液体で伝わる? 古代からの誤解
私たちの体の中で、脳からの司令がどのように手足の筋肉に伝わり、瞬時に動くことができるのでしょうか。あるいは、指先に触れた熱いものの情報が、いかに素早く脳に届いて「熱い!」と感じさせるのでしょうか。現代に生きる私たちは、これが神経を通じた「電気信号」によって行われていることを知っています。しかし、科学の歴史において、この神経の働きの理解は、長い間全く異なるものだったのです。
かつて、多くの人々、そして科学者たちが信じていたのは、「神経の中を液体が流れることで情報が伝わる」という考え方でした。これは古代ギリシャの時代にまで遡る考え方であり、中世を経て近世になっても根強く残っていました。
神経「流体説」はなぜ生まれたのか?
この神経「流体説」が広く信じられた背景には、当時の人体や機械に対する理解がありました。古代ローマの医師ガレノスは、神経は脳や脊髄から体の各部に伸びる管であり、そこを特別な「生気」のようなものが流れると考えていました。この考えは、生命活動を流れる液体や気体によって説明しようとする、当時の医学・哲学における一般的なアプローチの一つでした。
さらに、17世紀の哲学者であり数学者でもあるルネ・デカルトは、人間を含む動物の体を精緻な機械として捉える機械論を展開しました。彼は、脳はポンプのような役割を果たし、神経という「管」を通じて、筋肉を動かすための「動物精気」という流体を送り出すと考えていました。熱いものに触れると、その刺激が皮膚の神経の端にある弁を開き、動物精気が脳に送られ、脳が反射的に動物精気を筋肉に送り出して手を引っ込める、といった仕組みを提唱しました。
このような考え方は、当時の技術レベルや観察手段では神経の内部を詳細に調べるのが難しかったこと、そしてポンプや管といった身近な機械になぞらえることで人体の働きを理解しようとしたことなどが影響しています。神経は確かに管のように見えますし、体の中には血液やリンパ液といった液体が流れていますから、「神経も何か液体を流しているのだろう」と考えるのは、当時の人々にとっては自然な発想だったのかもしれません。
偶然の発見が常識を揺るがす:ガルヴァーニのカエル実験
この根強かった神経流体説に、決定的な疑問が投げかけられるきっかけは、18世紀後半にイタリアの医師であり物理学者でもあったルイージ・ガルヴァーニが行った一連の実験でした。
ガルヴァーニは、カエルの解剖中に、たまたまメスの先に触れたカエルの足の筋肉がピクッと痙攣するのを目撃します。さらに、雷雨の日に屋外でカエルの足を金属製のフックにかけておいたところ、稲妻が光るたびに足が痙攣することも発見しました。これらの奇妙な現象に興味を持ったガルヴァーニは、様々な金属や電気を使って実験を繰り返します。
彼は、異なる種類の金属(例えば亜鉛と銅)をカエルの神経と筋肉に同時に触れさせると、外部から電気を与えなくてもカエルの足が痙攣することを発見しました。この現象から、ガルヴァーニは動物の体内に固有の「動物電気」と呼ばれる電気が存在し、それが神経を通って筋肉を動かしている、と考えたのです。
これは、神経が単なる流体の通り道ではなく、電気と何らかの関係があることを示唆する画期的な発見でした。
激しい論争と電気信号説の確立
ガルヴァーニの「動物電気」説は、当時の科学界に大きな衝撃を与え、活発な議論を巻き起こしました。中でも有名なのが、イタリアの物理学者アレッサンドロ・ボルタとの論争です。ボルタは、カエルの足が痙攣したのは、異なる金属が接触したときに発生する電気(電池と同じ原理)が原因であり、動物自身に特別な電気があるわけではないと主張しました。
この論争は、電池(ボルタ電池)の発明につながるなど、電気化学の発展に大きく貢献しましたが、神経信号の本質が何であるかについては、まだ明確な答えが出ていませんでした。ガルヴァーニの発見は、金属による外部の電気刺激によって筋肉が動くことを示していましたが、神経が普段どのように情報を伝えているのかは不明でした。
19世紀に入ると、物理学や生理学の進歩により、神経現象の電気的性質がより詳細に調べられるようになります。ドイツの物理学者ヘルマン・フォン・ヘルムホルツは、神経を伝わる信号の速度を測定し、それが流体の流れとしては考えられないほど速いことを示しました。また、エミール・デュ・ボア=レイモンは、神経が活動しているときに微弱な電気が発生することを実験的に証明しました。
これらの研究の積み重ねにより、神経信号は流体の流れではなく、電気的な性質を持つものであるという理解が徐々に確立されていきました。
現在の理解:イオンが作り出す電気信号
現代の神経科学では、神経信号が「活動電位」と呼ばれる電気的なインパルスによって伝えられることが明らかになっています。神経細胞の細胞膜には、様々な種類のイオン(ナトリウムイオン、カリウムイオンなど)を選択的に通す「イオンチャンネル」と呼ばれる仕組みがあります。
神経細胞が刺激を受けると、これらのイオンチャンネルが開閉し、細胞の内外でのイオンの濃度バランスが瞬間的に変化します。このイオンの移動が、細胞膜を挟んだ電位差の変化、つまり電気信号を生み出すのです。この電気信号は、神経線維(軸索)を高速で伝わっていきます。
神経細胞から次の神経細胞へ、あるいは神経細胞から筋肉や腺へは、「シナプス」と呼ばれる接合部を通じて情報が伝達されます。多くのシナプスでは、電気信号が到達すると「神経伝達物質」という化学物質が放出され、これが次の細胞の受容体に結合することで、再び電気信号を引き起こしたり、細胞の活動を変化させたりします。
つまり、神経信号は電気信号であり、その電気信号はイオンという荷電粒子が細胞膜を移動することで発生しているのです。これは、かつて考えられていたような、神経の中を文字通り液体が流れるという考え方とは、根本的に異なります。
常識が覆されることの重要性
「神経の中を液体が流れる」という数千年にわたる「常識」が、「電気信号によって情報が伝わる」という全く新しい理解に置き換わった歴史は、科学の進歩の典型的な例と言えるでしょう。
当時の当たり前だった考え方や技術の限界の中で生まれた流体説は、その時代の最善の推測でした。しかし、新しい観察技術や実験手法が登場し、既存の「常識」では説明できない現象が見つかったとき、科学は立ち止まらず、大胆に古い考え方を問い直し、より真実に近い新しい理解へと進んでいくのです。
ガルヴァーニのカエルの実験という偶然の発見から始まった探求は、多くの科学者たちの研究を経て、現代の神経科学、脳科学、さらには人工知能の研究へとつながる強固な基盤を築きました。この歴史は、私たちが現在「常識」だと思っていることも、未来には覆される可能性があることを教えてくれます。そして、その問い直しこそが、人類の知的な営みを前進させる原動力となっているのです。