科学誤謬訂正史

「神経は網のように繋がっている」という「常識」はいかに覆されたか:ニューロン説の確立

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かつて信じられた「神経は網」という考え

私たちの思考や感情、体の動きを司る神経系は、非常に複雑なネットワークを形成しています。この神経系が一体どのような構造をしているのかは、古くから多くの科学者や思想家たちの探求の対象でした。

顕微鏡が発明され、細胞という生命の基本単位が見つかるようになると、神経系もまた細胞でできているのだろうと考えられました。しかし、神経細胞は非常に細く、複雑な形をしており、当時の顕微鏡技術や組織を染める技術では、個々の細胞の輪郭や繋がりをはっきりと捉えることが困難でした。

そんな中、19世紀後半の多くの研究者は、神経線維(神経細胞の長い突起)が互いに融合し、途切れなく繋がった網のような構造、すなわち「神経網(Reticular theory)」を形成していると考えていました。これは当時の科学的「常識」の一つであり、神経を通る信号がこの網の中を水が流れるように伝わっていくイメージで捉えられていたのです。この考え方は、イタリアの神経病理学者カミッロ・ゴルジらによって強力に支持されていました。

画期的な染色法と異なる解釈

この「神経網」という常識に大きな光を当てたのが、ゴルジ自身が開発した画期的な染色法、後に「ゴルジ染色法」と呼ばれる手法でした。これは、特定の神経細胞をランダムに、かつ全体にわたって黒く染め上げるという、当時としては革命的な技術でした。この染色法によって、神経細胞の複雑な形や突起の広がりが、初めてはっきりと観察できるようになったのです。

ゴルジはこの染色法を用いて神経組織を観察し、やはり神経線維が連続して繋がった網状構造として見えることから、自らの神経網説が正しいと確信しました。

しかし、この同じゴルジ染色法を用いたにも関わらず、全く異なる結論に至った科学者がいました。スペインの神経解剖学者サンティアゴ・ラモン・イ・カハールです。

カハールが見抜いた「個別の細胞」

カハールは、ゴルジ染色法を改良し、より鮮明に神経細胞を染め出すことに成功しました。そして、慎重かつ根気強い観察を重ねる中で、ゴルジが「繋がっている」と見なした神経線維の末端が、実際には他の神経細胞と直接融合しているのではなく、ごく近い距離で「接している」だけであることを見抜いたのです。

彼は、神経系は網のように連続した構造ではなく、一つ一つの独立した単位、すなわち細胞が集まって構成されているのだと提唱しました。これが、現在では神経科学の基本原理となっている「ニューロン説(Neuron doctrine)」です。彼は、それぞれの神経細胞(ニューロン)には、信号を受け取る「樹状突起(じゅじょうとっき)」、信号を伝達する「軸索(じくさく)」、そして信号を次のニューロンに受け渡すための「末端(神経終末)」があることを詳細に描き出しました。情報が神経網の中を流れるのではなく、個々のニューロンを通って、ニューロン同士の「接点(シナプス)」を介してリレーのように伝わっていくと考えたのです。

身近な例えで言えば、神経網説が「水道管のように全体が繋がって水が流れる」イメージだとすると、ニューロン説は「個別のレゴブロックが積み重ねられ、それぞれのブロックの間で情報をやり取りする」イメージに近いと言えるかもしれません。

ノーベル賞と論争、そして確立へ

神経網説を唱えるゴルジと、ニューロン説を唱えるカハールは、それぞれ全く異なる神経系のモデルを提示し、激しい論争を繰り広げました。しかし、カハールの緻密な観察と、それを裏付ける他の研究者たちの証拠が増えていくにつれて、次第にニューロン説が学界の支持を得るようになっていきました。

象徴的な出来事として、1906年にはゴルジとカハールが、神経系の構造に関する研究の功績を認められ、ノーベル生理学・医学賞を共同受賞しました。しかし、授賞式での講演でさえ、二人はそれぞれの説の正当性を主張し合ったと言われています。

その後、電子顕微鏡が登場し、シナプスの微細な構造が直接観察できるようになると、ニューロン説の正しさが決定的に証明されました。また、電気生理学の研究によって、神経細胞が電気信号を発し、シナプスを介して情報が伝わる仕組みが明らかになったことも、ニューロン説を強力に後押ししました。

現在の理解:ニューロンは神経系の基本単位

現在、神経科学において「ニューロンは神経系の構造的・機能的な基本単位である」というニューロン説は揺るぎない常識となっています。私たちの脳や全身の神経系は、約860億個とも言われる膨大な数のニューロンが、複雑なネットワークを形成することで機能していると考えられています。

かつての神経網説は、当時の観察技術の限界から生まれたものでしたが、ゴルジの偉大な染色法があったからこそ、カハールはニューロンの存在を見抜くことができたと言えます。ゴルジ染色法は、科学史において非常に重要な役割を果たした発見だったのです。

まとめ:観察技術と視点が変える科学の常識

このように、「神経は網のように全て繋がっている」という常識は、より精密な観察と、それに基づいた新しい視点によって「神経は個々の細胞(ニューロン)から成る」という真実へと訂正されました。この歴史は、科学における観察技術の進歩がいかに重要であるか、そして、同じ現象を見ても、異なる解釈や視点を持つことによって、全く新しい発見が生まれる可能性を示しています。

科学の常識は固定されたものではなく、新しい技術や研究によって常に更新されていく流動的なものなのです。私たちが今「常識」と考えていることも、未来には覆されているかもしれません。そのような科学のダイナミックな発展の歴史を知ることは、現代社会にあふれる様々な情報の真偽を判断する上で、きっと役立つはずです。