科学誤謬訂正史

「筋肉は膨張して動く」という「常識」はいかに覆されたか:収縮説の誕生と生命の精密機械

Tags: 生理学, 解剖学, 科学史, 筋肉, 収縮

筋肉運動にまつわる古い常識

私たちが腕を曲げたり、立ち上がって歩き出したりするとき、その体の動きを支えているのは筋肉の働きです。普段何気なく使っている筋肉が、どのようにして力を生み出し、骨格を動かしているのか、疑問に思ったことはありますでしょうか。

かつて、多くの人々が抱いていた筋肉運動に関する「常識」は、「筋肉は膨張することによって肢体を動かす」というものでした。まるで風船に空気を送り込むと膨らむように、筋肉も何か(当時の言葉で「精気」や「動物魂」などと呼ばれたもの)が流れ込むことで膨らみ、その結果として手足が動くと考えられていたのです。

この考え方は、長い間、解剖学や生理学の主流の一つとして信じられてきました。

なぜ「膨張説」が広く信じられたのか

この「筋肉膨張説」が生まれた背景には、いくつかの要因がありました。

まず、古代ギリシャの医師ガレノス(紀元後2世紀頃)に遡る古い医学思想の影響が挙げられます。彼は、生命活動は体内の四つの体液(血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁)と、血管を通る精気(プネウマ)によって司られると考えました。この精気が脳から神経を通って筋肉に送られ、筋肉を膨らませて運動が起こる、という考え方が、後の時代まで引き継がれていきます。

また、当時の解剖学的な観察技術にも限界がありました。肉眼や性能の低い顕微鏡では、筋肉が実際にどのように動くのか、その微細な変化を詳細に捉えることが難しかったのです。腕の筋肉を収縮させたとき、たしかに筋肉が太く盛り上がるように見えるため、「膨らんでいる」と解釈するのも無理からぬことだったのかもしれません。血管に血液が流れ込むと膨らむ様子など、他の生体組織の動きとの類推も働いた可能性があります。

「膨張」から「収縮」への疑問

しかし、科学的な探求が進むにつれて、この「筋肉膨張説」に疑問が投げかけられるようになります。

17世紀に入ると、イタリアの医師で解剖学者であったニッコロ・ステノ(Nicolaus Steno, 1638-1686)が、筋肉の構造と働きについて詳細な観察を行いました。ステノは、筋肉は体積を増やすのではなく、長さを縮めること、すなわち「収縮」によって運動を生み出すことを提唱しました。

彼は、膨張説では説明できないいくつかの点に気づきました。例えば、筋肉は収縮しても全体の体積はほとんど変化しないこと、そして、筋肉を切断しても神経を刺激すれば部分的にでも動くことなどは、筋肉全体に何かが流れ込んで膨らむという単純なモデルでは説明がつきにくかったのです。

ステノは、筋肉は多くの筋繊維が集まってできており、それぞれの繊維が短くなることで筋肉全体が収縮するという、より正確な概念を示しました。これは、筋肉運動の理解における大きな転換点となりました。

電気と筋肉:メカニズム解明への道のり

ステノによって「収縮説」が提唱されたものの、その収縮がどのようにして起こるのか、そのメカニズムは長い間不明でした。

18世紀後半には、イタリアの科学者ルイージ・ガルヴァーニ(Luigi Galvani, 1737-1798)が、カエルの解剖実験中に偶然、金属に触れたカエルの筋肉がピクッと動くのを発見しました。さらに彼は、カエルの神経に電気刺激を与えると筋肉が収縮することも見出しました。これは「動物電気」として知られるようになり、生命活動に電気が関わっていることを初めて明確に示した発見でした。この発見は、後に神経伝達や筋肉運動のメカニズムを電気的な視点から探求するきっかけとなります。

19世紀以降、顕微鏡技術がさらに発展し、筋繊維の内部構造が詳しく観察できるようになります。筋繊維の中には、規則的な縞模様を持つ構造があることが分かり、これが収縮に関係していると考えられました。

そして、20世紀半ばになると、電子顕微鏡が登場し、筋繊維の内部構造がナノメートル(1ミリメートルの100万分の1)レベルで観察できるようになりました。この技術と生化学的な研究を組み合わせることで、筋肉収縮の精密なメカニズムが次々と明らかになっていきます。

イギリスのアンドリュー・ハクスリー(Andrew Huxley, 1914-2017)やヒュー・ハクスリー(Hugh Huxley, 1924-2013、アンドリューの従兄弟)といった研究者たちは、筋繊維の中にある「アクチン」と「ミオシン」という2種類のフィラメント(細い繊維状の構造)が、お互いの間を滑るように移動することで筋肉が短くなる、という「滑り説(Sliding filament theory)」を提唱し、その証拠を数多く示しました。

現在の筋肉運動の理解

現在の科学では、筋肉運動は「筋肉が神経からの信号を受け取り、内部の構造が変化して収縮する」という精密なメカニズムで起こることが分かっています。

具体的には、脳や脊髄からの電気信号が神経を通って筋肉に伝わると、その信号が筋肉細胞内のカルシウムイオンの濃度を変化させます。このカルシウムイオンが、筋繊維の中にあるアクチンフィラメントとミオシンフィラメントの間に働く力を制御するスイッチのような役割を果たします。

カルシウムイオンが存在すると、ミオシンフィラメントの先端にある部分(ミオシン頭部と呼ばれます)が、アクチンフィラメントに結合して引き寄せる動きを繰り返します。この繰り返しによって、アクチンとミオシンのフィラメントは互いに入り込むように滑り合い、筋繊維全体が短くなるのです。

これは、古代の人々が想像したような、何かが流れ込んで膨らむという単純なものではなく、分子レベルの非常に巧妙で、かつエネルギー効率の良い仕組みであることが明らかになっています。

まとめ:常識の変遷と科学の力

「筋肉は膨張して動く」という古代からの「常識」は、17世紀の解剖学、18世紀の電気生理学、そして20世紀の分子生物学といった様々な分野における科学者たちの探求によって、長い時間をかけて「筋肉は収縮して動く」という現在の精密な理解へと訂正されてきました。

身近な筋肉の動き一つをとっても、その裏にはこのような科学的知識の積み重ねと、時には古い「常識」を覆すような大発見の歴史があったのです。

このエピソードは、科学における「常識」がいかに時代や技術の限界に影響されるものであるか、そして、新しい発見や探求の姿勢によって、その「常識」がより真実に近い姿へと絶えず更新されていくダイナミックなプロセスを示しています。科学の歴史を知ることは、私たちが現在持っている知識がいかにして築かれてきたのかを理解する上で、非常に重要なことと言えるでしょう。