科学誤謬訂正史

手術後の化膿は「避けられない」という「常識」はいかに覆されたか:リスターの消毒法と感染症予防

Tags: 手術, 感染症, 消毒, リスター, 医療史

命がけだった手術:なぜ術後は化膿したのか

今でこそ、手術は多くの病気を治す一般的な医療行為となっていますが、少し前まで、手術は非常に危険な行為でした。麻酔がなかった時代は痛みそのものが問題でしたが、麻酔が導入されてからも、多くの患者さんが手術後に亡くなっていたのです。その主な原因の一つが、「化膿(かのう)」でした。

手術でできた傷口が腫れ上がり、膿(うみ)が出て、熱が出て、時には全身に感染が広がり、命を落とす。これは当時の外科医にとって、避けられない、いわば手術につきものの「常識」でした。ひどい場合には、手術そのものが成功しても、その後の化膿で亡くなるという悲劇が繰り返されていたのです。

当時の人々は、なぜ術後に化膿が起きるのか、よく分かっていませんでした。古い考え方では、化膿は体内の不要なものが排出される過程であり、治癒の兆候とさえ捉えられることもありました。これを「良性膿」と呼ぶ医師すらいたほどです。また、「瘴気(しょうき)」と呼ばれる、空気中の悪いものが病気を引き起こすという考え方も根強く残っていました。手術室の空気や、患者さんの体内の状態が原因だと推測されていたのです。

見えない敵の正体:パスツールの発見

この「手術後の化膿は避けられない」という常識に疑問が投げかけられるきっかけとなったのは、直接手術とは関係のない分野での発見でした。フランスの科学者、ルイ・パスツールの微生物に関する研究です。

パスツールは、発酵や腐敗といった現象が、空気中に存在する目に見えない小さな生き物、つまり微生物によって引き起こされていることを明らかにしました。例えば、ブドウジュースがワインになるのも、牛乳が酸っぱくなるのも、微生物の働きだったのです。さらに彼は、これらの微生物を加熱などで殺菌すれば、腐敗を防げることを示しました。これが「低温殺菌法(パスツリゼーション)」として、今でも牛乳などの食品に応用されています。

パスツールの研究は、それまで原因不明とされてきた病気の正体にも光を当て始めました。病気もまた、外部から侵入した特定の微生物(細菌や後にウイルスと呼ばれるもの)によって引き起こされるのではないか、という「細菌説」が唱えられ始めたのです。これは、「病気は体内のバランスの乱れや瘴気によって起きる」と考えていた当時の医学界にとって、非常に革新的な考え方でした。

「常識」を覆した決断:リスターの挑戦

このパスツールの細菌学を知って、「これは手術後の化膿の原因ではないか!」と考えた医師がイギリスにいました。その名はジョゼフ・リスターです。彼は、傷口の化膿も、パスツールが発見したような微生物が外部から侵入して繁殖することで起きているのではないか、と推測したのです。

もしそうであれば、この微生物の侵入や繁殖を防ぐことができれば、化膿を防げるはずです。リスターは、微生物を殺す方法として、当時下水処理などに使われていた石炭酸(フェノール)に注目しました。そして、この石炭酸を薄めた溶液を使って、手術で使用する器具や包帯、さらには手術を行う医師の手、そして患者さんの傷口そのものまでも消毒するという方法を考案・実行しました。

今で考えれば当然のことのように思えるかもしれませんが、当時は「傷口に毒性の強い石炭酸を塗るなんてとんでもない」という批判や懐疑的な声が多くありました。また、微生物の存在自体がまだ広く信じられていなかったため、なぜ消毒が必要なのか理解されないこともありました。

しかし、リスターは自分の信念を貫き、この消毒法(消毒法はアンチセプシス、Antisepsis と呼ばれました)を臨床現場で地道に実践しました。すると、彼の病院では、手術後の化膿や感染症による死亡率が劇的に低下し始めたのです。これこそが、手術後の化膿が「避けられないもの」ではなく、「予防できるもの」であることの確かな証拠でした。

新しい「常識」へ:消毒法の普及と現代医療

リスターの成果は、当初はゆっくりとではありましたが、次第に世界中に知られるようになり、受け入れられていきました。そして、手術器具の滅菌(微生物を完全に死滅させること)や、手術室全体の清潔保持の重要性が認識されるようになり、外科手術の安全性は飛躍的に向上しました。リスターは「近代外科学の父」と呼ばれるようになります。

もちろん、消毒法だけで全てが解決したわけではありません。その後も、さらに効果的で安全な消毒薬の開発、オートクレーブ(高圧蒸気滅菌器)のような滅菌技術の進歩、そして抗生物質の発見・使用など、感染症をコントロールするための様々な技術や知識が積み重ねられていきました。

しかし、その最初の大きな一歩は、パスツールの基礎研究と、それに基づいて「手術後の化膿は避けられない」という古い常識に立ち向かい、消毒という新しい方法を導入したリスターの勇気ある実践から始まったのです。

科学的知識の更新がもたらす進歩

「手術後の化膿は避けられない」。このかつての「常識」は、現代の医療現場では考えられないことです。それは、目に見えない微生物が病気を引き起こすという新しい科学的知見が生まれ、それが具体的な技術(消毒や滅菌)に応用された結果、覆された常識でした。

私たちの周りにある科学的知識は、常に絶対的な真実とは限りません。新しい発見やより正確な観測によって、古い考え方が見直され、更新されていくのが科学の営みです。今回のリスターの事例は、そうした科学の進歩が、私たちの生活や健康にどれほど大きな影響を与えるのかを教えてくれています。私たちが今、安心して手術を受けられるのは、このような歴史的な「常識」の訂正があったからなのです。