「遺伝子の本体はタンパク質」という「常識」はいかに覆されたか:DNAこそ生命設計図だった発見史
遺伝情報の「常識」はタンパク質だった? 生命の設計図を巡る歴史
私たちの体や、地球上に存在するあらゆる生命の設計図である「遺伝子」。現在では、その本体がDNA(デオキシリボ核酸)であることは、多くの方がご存知の「常識」となっています。しかし、今からほんの70年ほど前、科学者の間では全く別の物質こそが遺伝子の本体であるという考えが有力でした。それが「タンパク質」です。
なぜ、タンパク質が遺伝子の本体だと考えられていたのでしょうか? そして、その「常識」はどのように覆され、DNAが生命の設計図であることが明らかになったのでしょうか? 今回は、遺伝子の本体を巡る科学史のドラマをご紹介します。
なぜタンパク質が遺伝子の有力候補だったのか
遺伝という現象、つまり親から子へ形質(特徴)が伝わることは、古くから経験的に知られていました。近代科学の時代に入り、19世紀にはメンデルによって遺伝の法則が発見され、遺伝子が「単位」として存在することが示唆されました。さらに、20世紀初頭には、遺伝子が細胞の中の「染色体」という構造体の上にあるらしいということが分かってきました。
この染色体は、主にDNAとタンパク質でできています。さて、遺伝子として情報を伝えるのはDNAとタンパク質のどちらでしょうか? 当時の多くの科学者は、断然「タンパク質」だと考えていました。
その最大の理由は、タンパク質の持つ多様性と複雑さです。タンパク質は、20種類のアミノ酸が様々な順序で長くつながってできています。このアミノ酸の並び順や立体的な構造によって、細胞の中で酵素として化学反応を助けたり、体の組織を形作ったりと、非常に多様で複雑な機能を発揮します。生命の持つ驚くべき多様な形質や機能は、この複雑なタンパク質の機能によって担われているように見えました。例えるなら、複雑な機械の部品は、単純なものではなく複雑な構造をしているはずだと考えたわけです。
一方、当時のDNAについての知識はまだ限られていました。DNAは、アデニン(A)、グアニン(G)、シトシン(C)、チミン(T)という4種類の塩基を含むヌクレオチドという単位が鎖状につながったものであることは分かっていましたが、その構造は単純な繰り返しであると誤解されていたのです。単純な構造の分子が、生命の複雑な設計図になりうるとは考えにくい、というのが当時の一般的な見方でした。
こうして、「遺伝子の本体は、複雑で多様な働きができるタンパク質である」という考えが、科学界の有力な「常識」となっていったのです。
「常識」への最初の疑問:グリフィスの実験
しかし、このタンパク質中心の「常識」に疑問を投げかける実験が登場します。1928年、イギリスの細菌学者フレデリック・グリフィスは、肺炎の原因となる肺炎双球菌を使った実験を行いました。
肺炎双球菌には、病原性の「S型菌」(周りを覆うカプセルを持つ)と、病原性のない「R型菌」(カプセルを持たない)があります。グリフィスは、まずS型菌を加熱して殺しました。加熱殺菌されたS型菌は、もはや病原性を失います。しかし、この加熱殺菌したS型菌と、生きているR型菌を混ぜ合わせてネズミに注射すると、驚くべきことにネズミは肺炎を起こし、その体内からは生きているS型菌が見つかったのです。
これは、病原性のないR型菌が、死んだS型菌の何かを受け取って、病原性のあるS型菌に「形質転換」したことを示していました。つまり、死んだS型菌の中に、生きたR型菌の形質を変える、つまり遺伝情報を伝える「何か」が存在するということです。グリフィスはこの物質を「形質転換因子」と呼びましたが、その正体は特定できませんでした。
この実験は、死んだ細菌から未知の物質が生きた細菌の遺伝情報を書き換えた、という衝撃的な結果であり、遺伝情報の伝達物質の存在を示唆するものとして、科学界に大きな影響を与えました。しかし、この因子がDNAなのかタンパク質なのか、あるいは他の物質なのかは、まだ謎のままでした。
DNAが主役へ:アベリーらの決定的実験
グリフィスの発見から16年後の1944年、アメリカのロックフェラー研究所のオズワルド・アベリー、コリン・マクラウド、マクリン・マッカーティらは、この「形質転換因子」の正体を突き止めるべく、詳細な実験を行いました。
彼らは、加熱殺菌したS型菌から様々な成分を分離し、それぞれの成分をR型菌に与えて、どれが形質転換を引き起こすかを調べました。実験の結果、形質転換を起こす能力があるのは、精製されたDNAの画分だけであることが明らかになりました。さらに、タンパク質を分解する酵素(プロテアーゼ)を加えても形質転換は起こりますが、DNAを分解する酵素(DNAアーゼ)を加えると形質転換が起こらなくなることも確認されました。
この実験結果は、形質転換因子、すなわち遺伝情報を伝える物質が、タンパク質ではなくDNAであることを強く示唆していました。これは、当時の科学界の「タンパク質こそ遺伝子の本体」という常識を覆す、非常に画期的な発見でした。
しかし、前述のように、当時の科学者の多くはDNAが単純な分子であると信じていました。アベリーらの発見はあまりにも「常識外れ」だったため、当初は広く受け入れられませんでした。「DNAの精製が不十分だったのではないか」「まだ未知のタンパク質が混ざっていたのではないか」といった懐疑的な意見が多く聞かれました。偉大な発見であったにも関わらず、アベリーはノーベル賞を受賞することはありませんでした。科学における新しい発見が、既存の常識とぶつかり合い、すぐに認められないという歴史の一例と言えます。
決定的な証拠:ハーシーとチェイスの実験
アベリーらの発見からさらに8年後の1952年、アルフレッド・ハーシーとマーサ・チェイスは、バクテリオファージという細菌に感染するウイルスを用いた有名な実験を行いました。この実験は、DNAが遺伝物質であることの決定的な証拠となりました。
バクテリオファージは、頭部の中にDNA、外側をタンパク質の殻で覆われたシンプルな構造をしています。ウイルスが細菌に感染する際、ウイルスは自身の遺伝情報を細菌の細胞内に注入し、細菌のシステムを利用してウイルス自身のコピーを大量に作らせます。ハーシーとチェイスは、この注入される物質がDNAなのかタンパク質なのかを調べようとしました。
彼らは、ウイルスを培養する際に、タンパク質に多く含まれる硫黄の放射性同位体(³⁵S)と、DNAに多く含まれるリンの放射性同位体(³²P)をそれぞれ培地に加えました。こうすることで、新しく作られるウイルスのタンパク質には³⁵Sが、DNAには³²Pが「目印」として組み込まれます。
次に、これらの「目印」のついたウイルスを細菌に感染させ、感染後すぐに激しく撹拌(かくはん)して、細菌の外側に付着したウイルスを取り除きました。そして、細菌の細胞内に入り込んだ「目印」が、硫黄(タンパク質)由来のものか、リン(DNA)由来のものかを調べました。
結果は明確でした。細菌の細胞内からは、リン(³²P)由来の「目印」が大量に見つかり、硫黄(³⁵S)由来の「目印」はほとんど見つからなかったのです。 これは、ウイルスが細菌の細胞内に注入したのは、外殻のタンパク質ではなく、内部のDNAであったことを決定的に示しました。そして、注入されたDNAこそが、細菌にウイルスを複製させるための遺伝情報であったことを意味していました。
このハーシー・チェイスの実験結果は、アベリーらの実験を追認し、DNAが遺伝子の本体であるという説を揺るぎないものとしました。多くの科学者が、それまで信じていた「タンパク質が遺伝子の本体である」という常識を改め、DNAに注目するようになったのです。
DNA二重らせん構造の発見と現在の理解
ハーシー・チェイスの実験の翌年、1953年にはジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックが、ロザリンド・フランクリンらのX線回折データを元に、DNAが二重らせん構造をとっていることを発表しました。この二重らせん構造の発見は、DNAがどのように遺伝情報を保存し、複製して次世代に伝えるのかというメカニズムを理解する上で非常に重要でした。DNAの構造が明らかになったことで、なぜDNAが生命の設計図となりうるのかという疑問が解き明かされたのです。
こうして、わずか数十年の間に、「遺伝子の本体はタンパク質である」という「常識」は完全に覆され、「遺伝子の本体はDNAである」という現在の科学的理解が確立されました。
現在、私たちはDNAの塩基配列を読み取る技術(ゲノム解析)を手に入れ、生命の設計図の詳細を解き明かしつつあります。病気の原因を探ったり、新しい医薬品を開発したり、生物の進化の歴史をたどったりと、DNAに関する知識は現代科学のあらゆる分野に応用されています。
まとめ:科学の常識は変わり続ける
「遺伝子の本体はタンパク質」から「DNA」への転換は、科学史における重要なパラダイムシフトの一つです。この事例は、当時の最先端の知識や有力な仮説であっても、新しい実験や証拠によって覆される可能性があることを示しています。
科学は、決して絶対的な真理の体系ではなく、常に新しい発見や検証によって更新されていくものです。過去の「常識」がどのように生まれ、いかにして新しい知見によって訂正されてきたのかを知ることは、現代社会で様々な情報に触れる私たちが、物事を批判的に考え、真偽を見極める上で大切な視点を与えてくれるでしょう。
この記事を通して、科学の歴史における「誤謬と訂正」のダイナミズムを感じていただけたなら幸いです。