科学誤謬訂正史

「彗星は不吉な前兆」という「常識」はいかに覆されたか:ハレー彗星が示した宇宙の規則性

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空に現れる「異変」は不吉な前兆? 古代の彗星観

夜空に突如として現れ、長い尾を引いて輝く彗星。その奇妙で壮大な姿は、古来より世界中の人々にとって畏怖と驚きの対象でした。多くの文化において、彗星はしばしば不吉な出来事の前触れ、天からの警告と見なされてきました。戦争、飢饉、疫病、王の死など、地上で起こる災いとの関連が信じられていたのです。

なぜ、彗星はこれほど恐れられたのでしょうか。その理由の一つは、空という、当時「完全で不変である」と考えられていた領域に、予告なく突然現れる「異物」であったことです。古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、月より遠い天上の世界は永遠不変であり、変化は月下の地上世界でのみ起こると考えました。彗星は、そのアリストテレス的な宇宙観にそぐわない存在でした。そのため、多くの人々は彗星を天上世界の出来事ではなく、地上の大気圏内で発生する珍しい現象だと解釈したり、あるいは神や運命が示す不吉な「しるし」だと考えたりしました。

この「不吉な前兆」という常識は、何世紀にもわたって強く根付いていました。多くの歴史書や年代記には、彗星の出現とそれに続く災難がセットで記録されています。人々は彗星を見るたびに不安を感じ、これから起こるであろう不幸に怯えたのです。

天上世界の「異物」への科学的視点

この根強い「不吉な前兆」という常識に、少しずつ科学的な光が当てられ始めたのは、ルネサンス期以降のことです。天文学の観測技術が進歩し、より精密な観測が行われるようになるにつれて、彗星に対する見方が変わり始めました。

デンマークの天文学者ティコ・ブラーエ(1546-1601年)は、1577年に現れた明るい彗星を詳細に観測しました。彼は、彗星の見かけの位置が、観測する場所によってどのように変わるか(これを視差と呼びます。遠い物体ほど視差は小さくなります)を精密に測定しました。その結果、彗星の視差は非常に小さく、月の視差よりもはるかに小さいことが判明したのです。これは、彗星がアリストテレスが考えたような大気圏内の現象ではなく、月よりもずっと遠い、惑星が存在する天上の領域にあることを示唆していました。これは、天上の世界が不変ではない証拠であり、当時の宇宙観に一石を投じる出来事でした。

さらに、ヨハネス・ケプラー(1571-1630年)が惑星の運動に関する法則(ケプラーの法則)を発見し、天体が円軌道ではなく楕円軌道を描いて太陽の周りを回っていることを示したことも、彗星の理解に重要な影響を与えました。これにより、天体の運動には数学的な法則が適用されるという認識が広まりました。

ニュートンの法則とハレーの予測

彗星を迷信から科学へと決定的に転換させたのは、アイザック・ニュートン(1643-1727年)の万有引力の法則と、その友人であるエドモンド・ハレー(1656-1742年)の研究でした。

ニュートンは、地上で物体が落ちるのも、月が地球の周りを回るのも、惑星が太陽の周りを回るのも、すべて同じ「万有引力」という普遍的な力が働いているためであることを明らかにしました。この法則は、それまで別々に考えられていた地上と天上の物理法則を統一する画期的なものでした。

エドモンド・ハレーは、ニュートンの万有引力の法則を彗星に適用することを考えました。彼は、過去に現れたいくつかの明るい彗星の軌道をニュートンの法則を用いて計算しました。そして、1531年、1607年、1682年に出現した彗星が、実は同じ一つの彗星が約76年の周期で太陽の周りを巡っているのではないか、という仮説を立てたのです。それぞれの出現時の記録から計算された軌道要素が、驚くほどよく一致したためです。

ハレーは大胆にも、この彗星が次に現れるのは1758年の終わりか1759年の初めだろう、と予測しました。これは、特定の彗星の周期的な回帰を科学的な法則に基づいて予測した、世界初の出来事でした。ハレー自身は予測の的中を見届けることはできませんでしたが、彼の予測は見事に的中し、1759年に再びその彗星が現れたのです。この彗星は、彼の功績を称えて「ハレー彗星」と名付けられました。

ハレー彗星の予測の的中は、彗星が不規則に現れる不吉な前兆などではなく、ニュートンの万有引力の法則に従って、惑星と同じように太陽の周りを決まった軌道と周期で回っている天体であることを、世界中の人々に鮮やかに示した出来事でした。

現在の彗星の理解

ハレー彗星の回帰以来、多くの彗星の軌道や周期が計算されるようになりました。現在では、彗星は「汚れた雪玉」と呼ばれるように、主に氷(水、二酸化炭素、メタンなどの凍結物)と塵からできていることが分かっています。太陽に近づくと、氷が蒸発してガスや塵を噴き出し、それが太陽光を反射したり、太陽風で吹き流されたりして、明るいコマや長い尾を形成します。

彗星の多くは、太陽系のはるか外側にあるカイパーベルトやオールトの雲と呼ばれる領域からやってくると考えられています。これらは、太陽系が誕生した頃の物質がそのまま残されている宝庫であり、彗星の研究は太陽系の成り立ちを知る上で非常に重要な手がかりを与えてくれます。探査機による彗星への接近や着陸調査も行われ、その物理的、化学的な性質が詳しく調べられています。

まとめ:迷信から法則へ

かつて、彗星は人々に恐れられ、災いをもたらす不吉な前兆と信じられていました。しかし、ティコ・ブラーエの精密な観測、ケプラーの法則、そして何よりもニュートンの万有引力の法則と、それを用いたハレーの周期予測という科学的な積み重ねによって、彗星に対する理解は劇的に変わりました。

彗星は、気まぐれに現れる謎めいた存在ではなく、宇宙の普遍的な法則に従って運行する天体であることが明らかになったのです。ハレー彗星の回帰は、科学的な予測の力を示し、それまで空に満ちていた迷信や非科学的な考え方を打ち破る象徴的な出来事となりました。

この歴史は、私たちが何か未知の現象に直面したときに、すぐにそれを恐れたり、非科学的な理由に結びつけたりするのではなく、まずは注意深く観察し、法則を探求し、論理的に考えることの重要性を教えてくれます。科学的な探求心と、事実に基づいた理性的な思考こそが、私たちの世界に対する理解を深め、誤った「常識」から解放してくれるのです。