科学誤謬訂正史

「原子は分割できない」という「常識」はいかに覆されたか:原子構造の発見と素粒子物理学の始まり

Tags: 原子, 素粒子, 科学史, 物理学, 化学

「原子は分割できない」という、かつての確固たる常識

私たちの身の回りのあらゆる物質は、非常に小さな粒からできている――この考え方は、古代ギリシャの哲学者デモクリトスにまで遡ることができます。彼は、物質を無限に分割していくと、それ以上分割できない究極の粒にたどり着くと考え、これを「アトムス」(atomos、ギリシャ語で「分割できない」の意)と名付けました。これが「原子」(atom)という言葉の語源です。

しかし、これはあくまで哲学的な思考実験であり、具体的な科学的証拠に基づいたものではありませんでした。

科学として「原子」の概念が確立され、「物質は分割できない原子からなる」という考え方が確固たる常識となったのは、19世紀初頭、イギリスの化学者ジョン・ドルトンの功績によるものです。ドルトンは、様々な化学反応における物質の質量の変化を詳細に調べました。その結果、化合物が分解したり、別の化合物になったりする際に、元の物質が常に一定の質量比で結びついたり分かれたりすることを発見しました。

この規則性を説明するために、ドルトンは物質が非常に小さく、内部構造を持たず、それ以上分割できない「原子」から構成されているという説を提唱しました。そして、同じ種類の元素(例えば酸素や鉄)の原子はすべて同じ質量と性質を持ち、異なる元素の原子は異なる質量と性質を持つと考えました。化学反応とは、この原子が組み替えられることである、と彼は見事に説明したのです。

ドルトンの原子説は、当時の化学で観測されていた様々な法則を非常によく説明できたため、瞬く間に広く受け入れられました。「原子は物質の究極の最小単位であり、これ以上分割することは不可能である」という考え方は、19世紀の科学におけるゆるぎない常識となったのです。まるで、それ以上壊すことのできない硬いビー玉のようなものだとイメージされていました。

「分割できない」原子からの疑問

しかし、この「硬いビー玉」のような原子像に疑問が投げかけられる出来事が、19世紀後半から20世紀初頭にかけて次々と起こります。

特に大きなきっかけとなったのは、電気に関する研究の進展でした。真空にしたガラス管に高い電圧をかけると、陰極(マイナス側)から陽極(プラス側)に向かって何かが見えない光のようなものが流れる現象が観測されました。これは「陰極線」と呼ばれ、その正体が何であるか大きな謎でした。

多くの科学者がこの陰極線を研究する中で、イギリスの物理学者ジョゼフ・ジョン・トムソンは、決定的な実験を行いました。彼は陰極線に電場や磁場をかけることで、その進路が曲がることを観測しました。そして、その曲がり具合から、陰極線が非常に軽いマイナスの電気を帯びた粒子の流れであることを突き止めたのです。

さらに驚くべきことに、この粒子の質量は、最も軽い原子である水素原子の約1800分の1しかないことが分かりました。これは何を意味するのでしょうか。ドルトンの原子説によれば、原子は分割できない最小単位のはずです。それなのに、その原子よりもはるかに軽いマイナスの電気を持った粒子が存在する――そして、陰極線はどんな種類の物質を陰極に使っても常に同じ性質を持つ粒子からできているように見えました。

トムソンは1897年に、この粒子こそが、あらゆる種類の原子の中に含まれている共通の構成要素であると発表しました。彼はこの粒子を「電子」(electron)と名付けました。これは、「原子は分割できない」という当時の常識を真正面から否定する、衝撃的な発見でした。

原子の中身を探る:原子核の発見

電子の発見によって、原子は内部構造を持つ、もっと複雑なものであることが明らかになりました。では、その内部構造は一体どうなっているのでしょうか? マイナスの電気を持つ電子が含まれているということは、原子全体としては電気的に中性であることから、どこかにプラスの電気を打ち消すものがなくてはなりません。

J.J.トムソンは、原子はプラスの電気を帯びた球の中に、マイナスの電気を持つ電子が点々と散らばっている、というモデルを提案しました。これは、まるで「ぶどうパン」の中にレーズンが埋まっているようなイメージだったので、「ぶどうパンモデル」と呼ばれました。

しかし、このモデルも長くは続きませんでした。トムソンの弟子であったニュージーランド出身の物理学者アーネスト・ラザフォードは、原子の内部構造を探るために、画期的な実験を行いました。彼は、プラスの電気を持つアルファ粒子(α粒子)という小さな粒を、非常に薄い金の箔にぶつける実験を行ったのです(1911年)。

もし原子がぶどうパンモデルのように、プラスの電気が全体に広がっている柔らかいものだとしたら、アルファ粒子はほとんど曲がらずに金の箔を通り抜けるはずです。しかし、実験の結果は驚くべきものでした。ほとんどのアルファ粒子は予想通りまっすぐ通り抜けましたが、ごく一部のアルファ粒子は大きく曲がったり、さらには跳ね返されたりしたのです。まるで、柔らかい紙に向かってボールを投げたら、たまに壁に当たって跳ね返ってくるような現象です。

この結果から、ラザフォードは考えました。「原子の中心には、非常に小さく、しかし原子の質量のほとんどすべてを持ち、強いプラスの電気を帯びた部分があるに違いない。その中心にアルファ粒子がぶつかったときにだけ、大きく弾かれるのだ」。彼はこの中心部分を「原子核」(nucleus)と名付けました。そして、電子は原子核の周りの広大な空間を回っていると考えました。原子全体を野球場に例えると、原子核はピッチャーマウンドに置かれた小さなビー玉ほどの大きさにすぎず、電子はその外側の遥か遠くを回っている、といったイメージです。原子のほとんどの部分は「何もない空間」だったのです。

このラザフォードの原子模型は、ぶどうパンモデルを覆し、現代の原子像の基礎となりました。原子は、かつて考えられていたような分割できない「硬いビー玉」ではなく、中心にごく小さな原子核があり、その周りを電子が回る、内部に広大な空間を持つ構造体であることが明らかになったのです。

さらに深まる構造:素粒子の世界へ

ラザフォードによる原子核の発見以降も、原子の探求は続きました。原子核自体も、プラスの電気を持つ「陽子」(proton)と電気的に中性の「中性子」(neutron)からできていることが明らかになります。そして、陽子と中性子、そして電子は、かつて「分割できない」とされた原子よりも、さらに基本的な粒子として認識されるようになりました。

しかし、科学の探求はそこで終わりません。20世紀後半には、陽子や中性子もまた、さらに小さな「クォーク」(quark)と呼ばれる粒子からできていることが理論的に予測され、その後の実験によってその存在が確かめられました。

こうして、かつて「分割できない究極の粒子」とされた原子は、現在では電子と、陽子・中性子からなる原子核で構成され、さらに陽子や中性子はクォークとグルーオンという粒子でできている、という階層的な構造を持つことが分かっています。そして、電子やクォーク、グルーオンなどは、現在のところ内部構造が見つかっていない「素粒子」(elementary particle)と考えられています。

科学の知は絶えず更新される

ドルトンによって確立された「原子は分割できない最小単位である」という常識は、19世紀の化学の発展を大いに推進しました。しかし、新しい観測技術や実験手法が登場するにつれて、その「常識」では説明できない現象が見つかり、より深い原子の構造が明らかになりました。J.J.トムソンによる電子の発見、そしてラザフォードによる原子核の発見は、まさに科学的「常識」が覆され、訂正されていく歴史の一幕です。

この原子観の変遷の歴史は、科学とは決して絶対的な真理の集まりではなく、常に新しい発見や技術によって更新され、より正確で詳細な理解へと進化していくプロセスであることを教えてくれます。私たちが現在「素粒子」と考えている粒子も、将来の発見によってさらに内部構造が見つかる可能性はゼロではありません。科学の探求の旅は、今も続いているのです。