科学誤謬訂正史

「空気には重さがない」という「常識」はいかに覆されたか:大気圧の発見が示した空気の質量

Tags: 科学史, 物理学, 大気圧, トリチェリ, パスカル, 実験史

空気は軽い? 見た目では分からない重さの謎

私たちは普段、空気の存在を意識することはあっても、その重さを感じることはほとんどありません。風船を飛ばせば空中に浮かびますし、手に取ってその質量を感じることもできません。そのため、かつての人々にとって「空気には重さがない」というのは、ごく自然な「常識」でした。

古代ギリシャの哲学者アリストテレスをはじめ、多くの思想家や科学者は、空気は「軽い」元素であり、その本質は重さを持たない、あるいは他の元素(土、水、火)に比べて極めて軽いものだと考えていました。当時の物理学では、物体が自然に上に昇るのはその「軽さ」によるものだとされていたため、煙や蒸気、そして空気が上に昇っていく様子は、「重さがない」ことの証拠のように見えたのです。

「自然は真空を嫌う」? 常識が説明できなかった現象

このような「空気には重さがない」という常識は、長い間信じられていました。そして、それと密接に関わる、もう一つの古い考え方がありました。それは「自然は真空を嫌う」、ラテン語で「Horror vacui(ホロル・ヴァクイ)」と呼ばれる考え方です。

これは、水揚げポンプが水を吸い上げたり、密閉容器内の空気を抜くと容器が潰れたりといった現象を説明するために考え出されたもので、自然界には真空状態が存在せず、何かが抜ければ必ず別の何かがそこに流れ込む、という考え方です。ポンプが水を吸い上げられるのも、自然が真空を嫌うからだと説明されていました。

しかし、この「自然は真空を嫌う」という考え方だけでは説明できない現象が、次第に明らかになってきました。特に、井戸の水を吸い上げるポンプが、どんな高性能なものでも約10メートル(正確には約10.3メートル)より高い場所まで水を吸い上げられない、という経験的な事実です。もし自然が無限に真空を嫌うのであれば、ポンプはいくらでも高く水を吸い上げられるはずです。なぜ、それ以上の高さには水が上がらないのでしょうか?

トリチェリの挑戦:真空の可能性と圧力の仮説

この謎に挑んだ一人が、ガリレオ・ガリレイの弟子であったイタリアの物理学者エヴァンジェリスタ・トリチェリ(Evangelista Torricelli, 1608-1647)です。彼は、水揚げポンプの限界は「自然は真空を嫌う力」に限界があるのではなく、別の何かが関わっているのではないか、と考えました。そして、彼は水よりもはるかに重い液体である水銀を使って実験することを思いつきました。

1643年、トリチェリは一方の端が閉じられた長いガラス管に水銀を満たし、開いている方を水銀の入った受け皿の中に立てました。すると、ガラス管の中の水銀は、管の長さに関わらず、受け皿の水銀面からおよそ76センチメートル(760ミリメートル)の高さで止まりました。そして、ガラス管のそれより上の部分は、何も存在しない空間、すなわち真空になりました。これが人類が科学的に作り出した初めての真空、「トリチェリの真空」です。

この実験結果から、トリチェリは画期的な仮説を立てました。水銀柱が一定の高さで止まるのは、水銀柱の重さと、水銀の受け皿の表面を押している何かの力が釣り合っているためではないか、と考えたのです。そして、その「何か」こそが、私たちを取り囲む空気の重さによる圧力、つまり「大気圧」であると推測しました。水揚げポンプが約10メートルで限界を迎えるのも、その高さの水柱の重さと、大気圧が釣り合うためだと説明できます。水は水銀の約13.6分の1の密度なので、76センチメートルの水銀柱を支える大気圧は、およそ10.3メートルの水柱を支える力に相当するからです。

パスカルによる決定的な証明:山頂で気圧は下がる

トリチェリの仮説は非常に大胆なものでしたが、「空気には重さがある」という、当時の常識とは全く異なる考え方でした。この仮説の正しさを証明するために、フランスの哲学者・科学者ブレーズ・パスカル(Blaise Pascal, 1623-1662)が立ち上がりました。

パスカルは、もし水銀柱を支えているのが空気の重さ、すなわち大気圧であるならば、空気の量が少なくなる高い場所に持っていけば、大気圧が弱まり、水銀柱の高さも低くなるはずだと考えました。彼は自身で実験を行うのが難しかったため、義理の兄弟であるフロラン・ペリエに協力を依頼し、フランス中部にある標高約1465メートルのピュイ・ド・ドーム山の頂上と、その麓の街で水銀柱の実験を行ってもらいました。

1648年に行われたこの実験で、ペリエは山頂では水銀柱の高さが麓よりも明らかに低くなることを確認しました。この結果は、水銀柱を支えている力が空気の重さ、つまり大気圧であり、空気に重さがあることの決定的な証拠となりました。この実験により、「自然は真空を嫌う」という考え方は否定され、空気には重さがあり、それが圧力(大気圧)として作用しているという、近代的な理解への道が開かれたのです。

その後、オットー・フォン・ゲーリケによるマクデブルクの半球の実験など、大気圧の力の大きさを実感させる様々な実験が行われ、空気の重さという新しい常識が広く受け入れられていきました。

現在の科学における大気圧の理解

現在の私たちの理解では、空気は窒素、酸素、アルゴンなどの様々な気体分子が集まってできています。これらの分子一つ一つは非常に軽いものですが、膨大な数集まり、地球の重力によって地表に引きつけられているため、全体としては無視できない質量を持っています。この空気全体の重さによって、地表では私たちを含むあらゆるものが約1気圧、つまり1平方センチメートルあたり約1キログラムの力で押されています。これは想像以上に大きな力ですが、私たちは体の内側からも同じ圧力で押し返しているため、潰されたりすることはありません。

気圧は、パスカルの実験が示したように、高度が上がるにつれて低くなります。これは、高い場所ほど上の空気の層が少なくなり、その重さが軽くなるためです。この気圧の変化は、天気予報における低気圧・高気圧の概念や、飛行機に乗った時の耳がツンとする現象など、身近なところでも感じることができます。

身近な「常識」の背後にある科学

「空気には重さがない」という、ごく当たり前に思えた日常的な感覚に基づいた常識は、水揚げポンプの不思議な限界という小さな疑問から始まり、トリチェリやパスカルといった科学者たちの探求と実験によって見事に覆されました。そして、私たちを取り巻く空気には目に見えない大きな力、大気圧が存在することが明らかになったのです。

この事例は、私たちの五感や経験に基づいた「常識」がいかに誤りを含みうるか、そして科学的な観察、実験、そして論理的な思考がいかに重要であるかを教えてくれます。当たり前だと思っていることの中にも、まだ隠された真実や、古い常識を覆すような発見が潜んでいるのかもしれません。

私たちの周りにある空気のように、見慣れた現象の背後にも、科学の探求心をくすぐる謎が隠されていることを、この歴史的な訂正は私たちに改めて示唆してくれているのではないでしょうか。