「空気は単一の元素」という「常識」はいかに覆されたか:酸素発見が変えた化学
空気は単一の、目に見えない何か? 古代の「常識」
私たちは普段、当たり前のように空気を吸って生きています。無色透明で、手で触れることもできない「空気」は、まるで単一の、どこまでも広がる「何か」のように感じられるかもしれません。そして、かつて多くの人々が、まさにそのように考えていました。
古代ギリシャ以来、哲学者の間では「四大元素説」という考え方が広く受け入れられていました。これは、世界を構成する基本的な要素は「土」「水」「火」「空気」の四つである、とするものです。この考え方では、空気は他の元素とは明確に異なる、それ以上分解できない単一の根源的な物質だと見なされていました。
この「空気は単一の元素である」という考え方は、およそ2000年もの間、ヨーロッパを中心とする世界の「常識」として定着していました。錬金術師たちも、物質を四大元素の組み合わせと考えていましたし、燃焼や呼吸といった現象も、この単一の空気観の中で説明が試みられていました。例えば、ものが燃えるときには「フリストン」という成分が空気中に放出される、といった説(フリストン説)も生まれましたが、これも空気自体が単一であるという前提に立つものでした。
密閉された世界で見つかった「空気」の別の顔
しかし、17世紀から18世紀にかけて、科学者たちは四大元素説では説明できない現象に直面するようになります。特に化学の分野で、ものを燃やしたり、酸とアルカリを混ぜたりする実験が精密に行われるようになるにつれて、この「空気は単一」という常識に疑問が投げかけられるようになりました。
転換点となったのは、気体をガラス容器などに閉じ込めて実験を行う技術が進んだことです。これにより、気体の量を測ったり、反応前後の気体を比較したりすることが可能になりました。
1750年代、スコットランドの化学者ジョゼフ・ブラックは、石灰石(炭酸カルシウム)を加熱すると、「固定空気」(fixed air)と呼ばれる気体が発生し、石灰水が白く濁ることを発見しました。これは、私たちが今「二酸化炭素」と呼んでいるものです。この固定空気は、普通の空気とは明らかに異なる性質を持っていました。燃焼を助けず、呼吸にも適さない、重い気体だったのです。この発見は、「空気は単一ではない、異なる性質を持つ気体が存在する」という可能性を示唆するものでした。
続いて、ヘンリー・キャヴェンディッシュは、酸と金属の反応から「燃える空気」(inflammable air)を取り出しました。これは非常に軽く、火をつけると燃える性質を持っていました。現在の「水素」にあたる気体です。
燃焼の謎と「新しい空気」の発見
これらの発見は、「空気」というものが実は単一の物質ではなく、複数の成分から成り立っているのではないかという疑問を科学者たちの間に広げました。そして、この疑問に決定的な答えをもたらすことになる気体が発見されます。
1770年代、スウェーデンのカール・ヴィルヘルム・シェーレとイギリスのジョゼフ・プリーストリーが、それぞれ独立に、ある特定の物質を加熱することで、燃焼を非常に激しく助ける、あるいは動物がその中で呼吸すると元気になるといった、特別な性質を持つ気体を発見しました。プリーストリーは、この気体を「脱フリストン空気」(dephlogisticated air)と呼びました。これは、当時のフリストン説に基づき、「燃焼によって物質からフリストンが抜け出た後に残る空気」と考えたためです。彼はこの気体の中でろうそくが明るく燃えたり、ネズミが活発になったりする実験を行いました。
ラヴォアジエによる「空気」の正体解明と近代化学の誕生
これらの新しい気体の発見は、当時の化学界に大きな混乱をもたらしました。四大元素説やフリストン説では、これらの現象や新しい気体の性質を統一的に説明できなかったからです。
この状況に終止符を打ったのが、「近代化学の父」と呼ばれるフランスのアントワーヌ・ラヴォアジエです。彼は精密な天秤を用いた定量的な実験を重視しました。ラヴォアジエは、金属を加熱して「カルクス」(酸化物)ができる際に、プリーストリーが発見した「脱フリストン空気」が結合していることを明らかにしました。そして、ものを燃やすとは、物質がこの「脱フリストン空気」と結合する現象であり、呼吸もまた、体内でこの気体を使う化学反応であることを突き止めました。
ラヴォアジエは、この燃焼や呼吸に不可欠な気体を「酸素」(oxygène)と命名しました。さらに、空気から酸素を取り除いた後に残る、燃焼も呼吸も助けない気体が別の成分であることを見抜き、これを「窒素」(azote)と呼びました(この窒素の発見には、ダニエル・ラザフォードというスコットランドの科学者も貢献しています)。
ラヴォアジエの実験によって、空気は単一の元素ではなく、主に酸素と窒素という異なる二つの気体が混ざり合ったものであることが科学的に確立されたのです。彼は質量保存の法則を明確に提唱し、元素の概念を再定義するなど、旧来の化学体系を根本から覆す「化学革命」を起こしました。空気組成の解明は、この化学革命における極めて重要な出来事でした。
今、私たちが知っている空気の姿
ラヴォアジエの時代から現在に至るまで、科学技術は飛躍的に進歩しました。現在の科学では、地球の空気(大気)は、体積比で約78%の窒素、約21%の酸素、そして約0.9%のアルゴン、さらに非常に微量な二酸化炭素やその他の気体からなる混合物であることが正確に分かっています。それぞれの気体は、古代の四大元素のような基本的な「質」ではなく、原子や分子という具体的な構造と、それぞれに固有の化学的な性質を持つことが解明されています。
空気の成分を知ることは、天気予報、航空、医学、産業など、私たちの社会のあらゆる側面に不可欠な知識となっています。
まとめ:当たり前を疑う科学の力
古代から何千年もの間、「単一の元素」だと信じられてきた空気。その正体が、わずか数百年の科学の歴史の中で、複数の気体の混合物として明らかになった過程は、科学の進歩がいかに私たちの「常識」を塗り替えてきたかを示す好例と言えるでしょう。
この物語は、目に見えないもの、あまりに身近すぎて当たり前だと思っているものの中にこそ、まだ知られていない驚くべき真実が隠されているかもしれない、ということを教えてくれます。そして、その真実を探求するためには、精密な観察と実験、そして旧来の常識を疑う勇気が不可欠であることを示唆しているのではないでしょうか。
私たちは今、空気の組成を知っています。しかし、宇宙の片隅に浮かぶこの青い惑星の空気について、あるいは地球以外の天体の空気について、まだ知らされていないことはたくさんあるはずです。科学の探求は、これからも続いていくのです。